496の落書き帳

496がなんか思ったことを書いたり書かなかったりする場所です。

にっき『教育』

我々の頭の中にある世界のコピーをそっくり他人の頭に移植することは、本当に教育と言えるのだろうか。

今日はバイトをした。

嘘である。今からバイトに行く。帰ってくると容易に日付が変わる時刻だ。どうしたものかな。

かれこれ3年ほど予備校で働いているが、いい仕事ができているかというとよく分からない。元々、高校生の頃は親友に理科とか数学を教えるのが楽しみの大半であった。そのノリで仕事を始めた次第であるが、どうにも違和感が拭えない。

お気持ちを言うと『自分だけが空回りしている』感覚が常にある。これは純粋に速さや喋り方の問題なのでは?と暫くは思っていたが、やはり何か違う。ゆっくり丁寧に、伝えるべき情報を全て伝えたとしても、授業は聞き流されるというか、『ふーん』でしかないというか、身についてないというか、

そう、それはそうである。学ぶというのは、見聞きしたことを頭の中に綺麗にコピーするというものではない。お上の言葉を使えば、それは『主体性がない』。

あるいはそもそも、先生は教科書をそのまま喋っているわけではない。『教科書と授業が全く同じなら教科書は要らない』という揶揄は昔からあるが、先生は中身を噛み砕いて喋っているはずだ。自分は、教科書のお話を自分なりに砕き切ったものをお出しするのが一番良い仕事のやり方だと思っていたーーしかし、砕き方は人によって違う。だから怖い。これは『自分のやり方』を人に押し付けているのではないか…?

原理主義(用語合ってる?)的に考え直すと、こういうことではないか。噛み砕くというのは、知識を自分の理解しやすいように変形することだ。情報科学っぽく言い直せば、自分の頭に収納しやすいイメージにすることだ。それをやって初めて自分のものになる気がする(文字通り身につくと言えよう)。一方で、それをやってしまった時点で、知識は元のそれ自身から乖離している。多分、自分の頭の中の高校数学やら物理やらの知識は数多の解釈作業を経てかなり変形しているだろう。

高校生の自分はこの乖離こそ個性であり大事なものだと思っていたが、一方で教科書に勝手なイメージを投影するのは危険だとも感じていた。それこそ数学とかでは真っ先に怒られそうだ。しかしそういう分野ばかりでもないだろう。

お話をまとめよう。知識は自分向けの形に噛み砕くことで自分のものになる。しかしその方法は人によるので、先生が砕いた後のものをお出ししても、それはある人の場合の結果であり参考にしかならない。では、どうすれば生徒側の知識の獲得を、自力で噛み砕くという行為を支援できるだろう。まず、自力で解釈を生み出すという行為が謎に包まれている。どうして人間はそんなことが可能なのか。

そんなことを少しずつ考えてもう3年になる。この先に、もしかしてもしかすると、『学習』という概念をひっくり返す何かがあるのではないか。

そんな夢を見ながら、眠りにつく。