にっき「自立」
自由と責任、略して自責。
昨日貼った動画の人の他動画をちょっと見た。
これは人間の自立過程についての動画。論点は
- 自分が自由に決められる範囲は自分が責任を持つこと
- 自分の自由領域=自分の責任領域(=自他の境界線?)を確定させることで初めて他人と対等な付き合いができる
- 失敗した責任は自分にない場合も多いが、立ち上がる自由と責任は自分にあることが多い
「自由領域=責任領域」は社会の鉄則として知られているわけだが、今の自分はどこまで自由か、つまりどこまで責任があるか。これが大問題だ。「やる気があればどこまでも行ける」と高らかに謳われる自由主義の現代社会であるが、当然同時に責任領域が広がっていっている。自由主義が実現すればするほど、「ほら自由だよ!好きにできるよ!」と言われるようになり、だだっ広い荒野に放られて困り果てる。「自分に本当にできる範囲」が不明瞭になり、任意の問題が「できないんじゃなくてお前がやってないだけ」になり、言い訳がつかなくなる。(なお、日本人は自分の義務には敏感だが自分の持つ権利には疎い(そういう教育をしていない)ということが指摘されているらしいが、教育論の話は一旦しないでおこう。)
なるほど、自分の責任領域の確定か。それは大事そうだ(技術的には可能とかいうワードが頭をよぎるな)。「これはできたのにやらなかったから自分の責任」「これは自分の自由にできることじゃなかったから自分の責任じゃない」という折り合いをつけること。そして自分の領域をより良いものにしていくこと。他人の領域に踏み込まないこと。おー、なんか自立したオブジェクトみたいですな。
ところで、何か失敗したときには個々人の反省とともに責任の所在を考えるものだが、どうも誰の責任とも言えないという事態がありうる。とどのつまり「運が悪かった」、これは最強の言い訳でもある。実のところ、自由領域や責任領域は見た目よりも(自由主義が謳うよりも)ずっと狭いのだろうと最近思うようになった。「技術的には可能」だが現実にはおおよそ不可能なことが山のようにあり、誰の手でも操作できない運命に我々は翻弄されている。高校生あたりの頃はこういう諦めが自分を覆っていたし、今もあまりその考えを捨てたくない。言い訳がなくなってしまうので。
さて、言い訳というワードが気になってきたところで、次の話は防衛機構っぽいネタ。
論点は「自分を責めるのはストレスによる攻撃的感情の矛先を(他人に向けると社会的にダメだと考えた結果)自分に向けるから」。これは自分の特殊性癖かなんかではなかったのか、と長年の不安を解消したところである(ひどい)。うまくストレスの捌け口を作るのは大変難しく、自分に向けることに慣れてしまうと正直便利だ。完璧に自己完結していて、迷惑もコストもかからない。ダメですよ。健全な人々は真似しないでください。思考が感情に引っ張られて、本当に自分が悪いのだと錯覚するようになります。責任領域の過大評価とも言えるか。
感想はこれくらいにして、今の自分の思考進捗の話。「大人になりたい」この一ヶ月で何度唱えたことか。それに必要なのは
- 自立すること
- 人を助けられる人になること
と考えている。一つ目の課題は、勿論経済的な面も含むが、心理的な面はじわじわ分かってきた気がする。二つ目が全くの謎だ。人はどうやったら助けられるのだろうか。上記の動画も、実のところ原理説明しかないようなところがあって「結局どうすれば解決するん??」という文句コメントも見た。カウンセリングって大体「症状を観察・理解して、あとは気長に待ちます」っぽいのだが、整理が十分に終わったらもう解決している状態なのだろうか。動作原理が分かることと、どうすれば直せるか分かるということは別問題である。何か、何か腑に落ちない。
うーん、やはり話題が散らかる。論点が多い。もっと追究されるべきところが色々あって整理が面倒で、ややこしいレポートを書いている気分だ。いや、整理したくて書いているのだが、流石に日記の下書きと清書をするとかやりたくないしなあ。ちょっとこの週末かけて考えて書いてみるとかしてもいいかもしれない。宿題ってことで。