にっき「意識を意識する」
昨日の思考の続きを書こうと思っていたが、今日は今日で色々なことが起こってしまった。うーん、忘れる前に昨日のことを書くかぁ。
さて、機械学習その他もろもろに嫌気が差したところで、人間の脳にあってニューラルネットにないものは本質的に何か、などということを考え始め、風呂で2時間近く瞑想した。実際のところ途中から迷走していたが。自分の思考のはたらきを観測、分析するという試みは哲学的に難しい。こういうことをした哲学者は無数にいるはずだが、ここでの考察は脳とは化学回路に過ぎないという諦め切った視点でやっているというところが哲学と違う、気がする。
「自分にとっては簡単でも、他人には難しいタスクが…」などと適当に書いたが、自分にとって簡単あるいは計算量が少ないということは、処理中に自分の意識にのぼる情報量が少ないということでしかない。裏では無意識の処理がたくさんあるということを念頭に置かないといけない。そして自然に究極の難問へと到着する:意識とは何か?どんなに解剖してもニューラルネット状のものしか出てこないとすれば、それだけで意識というものが作り出されているはずなのだ。これについて考えるのはさらに哲学的難易度が上がるように感じられる。まあ前口上は程々にして、勿体ぶらずに瞑想の成果を言おう。
- 人間が得意とする知識の圧縮(公式化)は、特定のニューロンたちに伝播する一連の流れをまとめたようなニューロンが生成されることでできそうな気がする。とすると、層に分かたれたニューラルネットワークではこれが上手くいかない気がする。
- 意識や自己認識のためには、自身の出力が再び自身に戻ってくる構造が必要な気がする。人間というハードウェアは自分の行動が自分にフィードバックされうる(例えば手を動かす信号を送ると手が動いた視覚信号が来る)が、それに頼らずともニューラルネット内部だけで信号が回る仕掛けがある気がする。
中々上手く書けないが、うんうん唸ってこんな感じの考えが出てきた。前半は自分の思考回路を観察して推測した、正直な話ただの勘である。人間は情報を圧縮する機能があるという感覚まではそれなりに確信があるが、実現法については怪しい。そもそも脳の記憶装置とかどうなってんねんといったことをちゃんと知らないで考えるには限界がある。
んでもって完全に忘れていたのだが、意識を得るにはニューラルネットの自己ループが必要だという話、昔聞いたことがある。久々に思い出したが、再発見してしまった。入出力方向が一直線なニューラルネットは言うなれば組み合わせ回路で、自己ループがある回路は順序回路っぽい雰囲気をしているし、順序回路はなんだか意識を持つという言葉のイメージに合っている。例えば、何か一つのことを意識しつづけるという行為は順序回路がないとできない感じがする、みたいな。そうすると、実際の脳は順序回路でできた上位モジュール「意識」が組み合わせ回路でできた下位モジュールを動かすみたいな構造をしているかもしれない。それっぽくなってきたぞ。
まあ、聞いたことがあるってことは先行研究があるということだ(!)。きっと色々なことにそれなりに先行研究があるはずで、それをちゃんと当たっていかないと残念なことになるだろう。妄想も夢見も大事だが、まだまだ人から学んでいかないと。
とまあ、勉強と研究のモチベがちょっと上がったところで、今日はこれまで。うん、進んでいる間は楽しいな。停滞するとつまんなくなるけど。