496の落書き帳

496がなんか思ったことを書いたり書かなかったりする場所です。

にっき「走馬灯」

うおおおおおお。今日はいろんなことがあった。

怒涛のように研究室の説明会があった。その後研究室について悩み、人生について悩み、昨日見たブログ記事をもう一度丁寧に読解してみようと思って、読んで、その深みと自分の感想をそれなりに観察して、さらに去年の失敗とその教訓を偲んで、23:25現在に至る。

研究室の話だけでもお腹いっぱいである。どんな研究をしてみたいか?まず研究ってどんな行為か?正直去年の勉強の進みが悪かったのでhogehogeの分野は向いていないと思うが、本当にそんな理由で決めていいのか?まず研究の前に研究室巡りをするわけだが、何のためにするのか?研究のやり方を学ぶとはどういうことか?…

本当に色々なことを考えたのだが、書いている間に忘れるし今日が終わってしまうので、テーマだけ書き殴っていくことを思い付いた。この調子で行ってみよう。

勉強というものにさえ疑念が生じてくる気持ちを抱えながら、昨日のブログ記事を精読した。実に有意義なことがたくさん書いてある。Googleのエンジニアに必要なのはエンジニア界隈の常識である(常識とは現場の9割の人間が知っているような知識を指す)。面接で出る問題は独創的で難しく見えるが、実は歴史上に類題があり、それを思い出せば良いだけであって、そのような歴史の知識は常識である。14年前、エンジニアの常識を鍛えるために競技プログラミングという概念が編み出されたが、今や競技として面白くすることに傾倒しすぎて常識が身に付かない別ゲーと化したことが懸念されている。ところで常識は大学にいれば自然に身につくが、それは現役研究者が本気で自分に比肩する研究者を育てようと教育してくれるからであり(そのとき沢山の常識が伝授される)、日本の大学で真にそうした教育をできているところは残念ながら少ない。結果、教育を受けないまま教師側に回る人間が出るという危機的状況が見える部分もある。他方、定期的に同期と交流していれば無常識であることはすぐに気づくが、現代では交流が薄れており、無常識なまま独り歩きした人間(素人目にはつよつよに見える「田舎初段」)が重要な意思決定で重大なミスをしたりTwitterなどで決断力に満ちた詭弁を呈したりする(そういうものはかっこいいのでバズるというところがさらに悪質だ)ことに危機感を覚えるべきだ。

そして最後に、(記事の最後ではないが)「大学院に行く選択肢を端から視野に入れていない人間がいるということは、人間の尊厳の問題だと思う」という怒りに満ちた一文がとても印象的だった。自分が筆者を「上の層」の人間と形容したのはこの文による。筆者は前提の崩壊に対する怒りのあまり諦めかけるが、ペテロの話を思い出して持ち直す。ちなみに自分は残念ながら教養がなくペテロの話をggって理解した。本当にとんでもない記事である。

さらに感想。下の層の人間が上の層の存在を知らないということはとても物悲しく、解決したくなる話だが、正直社会的リソースが足りない。下の層からすると、自分には上の層に届く権利(才能)がないと諦めてしまうのだが、実の所才能というか地頭は後天的に伸びるものであり、その成長は20歳では止まらないので、諦めるのは早計である。自分は去年6月に学業が最悪の状態に至り破滅したのだが、その時に自身の成長と可能性を初めて見つめ直し、立ち直った経緯がある。それまでは諦める側の人間だったことを白状しよう。きっと上の層から手を伸ばして引っ張り上げてくれる人が必要だったのかもしれない。そういう人が真に良い先生なのかもしれない。

別の話題の感想。実の所エンジニアになる勉強というのは歴史に学び知識を詰め込むことが大半らしい。自分にとってはこれは「パターンマッチングだけのつまらない勉強」と一蹴してきた勉強であり、自分の思考回路を根底から変えるような勉強が真の勉強だと思っていた(学習とは再構成だ、という文言が似合う)。今日、それらの比喩として「メモリを書き換える勉強」「CPUを書き換える勉強」という言葉を編み出した。これは機械学習の研究で何かの鍵になるかもしれないし、ならないかもしれないし、もうなっているかもしれない。

ところで、(CPU実験のことを思い出しながら)自分で開拓したという事実が重要なのだとすると、それは歴史の再演であり時に時間の無駄だが、達成感は凄まじい。歴史に学ぶことは効率的であるが、時々、自分にできることはもうないのではという虚しさを感じ、モチベーションは下がるだろう。これらが程々に混じった「誘導付き歴史の再演」あるいは「歴史の追体験」が良さげな学習法に見えるが、実は論文を通読することは正に歴史の追体験に相当する。研究室で論文を通読しようというモチベーションが生えた。

さらに別の話題の感想。人間の才能や地頭が後天的に伸びるということを認めるのは「人間の脳も栄養等で少しずつ発達するハードウェアに過ぎない」という事実を認めることを暗に示唆しており、人間の神秘性や自由意志といった尊厳に触れる。だから嫌だったのだということに気づいたが、気づいた以上立ち向かっていかなければならない。これは一生ものの哲学的課題だろう。

追記。自分の思考回路を書き換える勉強をしたとき、勉強する前とは別人になってしまう。これは本質的な進歩と呼べるかもしれないが、知らぬ間に失っていくものもあると恐れている。徹底的に苦しむという体験は間違いなくそのような変化をもたらすが、苦しまなければ成長できないのかという疑問は未解決だ。それともう一つ、なまじ頭が良いと限界を感じなかったり人に聞かなくても解決できたりで独学に走りがちだが、これは歴史に学ぶ姿勢の欠落および無常識な人間になるという危険性を抱えている。(自分のことだ)

うん、怒涛のようにテーマと要旨を書いた。あまりにも多くて詳細に書けないが、メモとしてはこんなものだろう。珍しく、本当に有意義な1日だったと胸を張って言える。お疲れ様でした。おやすみ。