496の落書き帳

496がなんか思ったことを書いたり書かなかったりする場所です。

にっき『漢文』

今日は知り合いに会った。リアルで。

(このご時世、これを書くのは後ろめたいという気持ちは少しある。2月以降に東京で対面した人は5人に満たないので、どうか許してほしい。)

めちゃくちゃテンションが上がった。そして大いに無駄話をした。あとハイになって寿司をたくさん食べた。高かった。

通話はこの間したんだけども、対面で話すのはどうしてこんなに違うのだろう。電気信号を通さない生の声?目の前で人が動いている感覚?こういうものがいつかはVRのチャットなんかで体現されるのだろうか。あるいは、単に今日の自分のテンションが高かっただけかもしれない。会合と全く無関係とは行かなくても、例えば対面するという情報に対する、プラセボ的な何かと申しますか。うーん、この話は特に考察が浮かばないなあ。まあいいや。

無駄話をしたと言ったが、完全な無駄話でもなかった。会ったのは知り合いの中国人留学生だったのだが、『日本語喋れるの普通にすげーな』『留学生の入試って国語あったんだっけ?』などという流れから『日本の国語に漢文があるのはなんかキモくないか?漢文は古典中国語であって日本語ではないだろ』という話になった。少し検討して、元々日本には文字がなくて、最初に得た文字が漢字であったのだということを思い出した。日本史に詳しくはないが、しばらくの間、会話は独自の日本語でやっているけど文字記録などは輸入してきた漢字でやっていた時期があるはずなのだ。その後、ほぼ完璧な表音文字としての仮名文字が出てきて漢字は補佐的な役割に収まっていく。

キモさのポイントは漢字が表音ではなく表意文字であるということだ。言語の音を文字列に変換する装置としてなら、輸入だろうがなんだろうが好きな文字をある程度使えるはずだ。多少発音がズレるにしても、ローマ字で『konnnichiwa』と書けば伝わる。文字を持たないどこかの言語圏が韓国のハングルを輸入して云々などの話も面白い。ついでに言うと、韓国がハングルという文字を『開発』した話はすごく面白いが、一旦置いておこう。

あの時の日本人は、日本語を漢字で書いたのではなく、かといって手紙や文書を書くときだけ中国語を操ったとも言い難い。漢文の訓読というシステムは見事にその狭間に存在していた。なんと呼べばいいのだろう。中国語なのだが、日本語で読めるように作ってある。それが、仮名で書かれた古文よりもさらに前の、日本語の古典の最初の形ということだ。

ところで、国語の漢文って結局中国の文しか読んでない気がするのだが、果たして。さっきの言説からして間違いなく『日本人が書いた漢文』があるはずなのだが、現存してないとかなのかな。あるいは教材に適さない?謎である。どちらにせよ、文字の運用法としてはあまり流行らなかったのであろう。ただ、輸入した文字という文化に対してこのような反応が起きたことは興味深い。

もっと考えたいところだが、時間切れだ。疲れた。寝ます。