にっき「情報科学とは?」
昨日は見事に、完全に停止していた。OFFとはこういうことを言うのだろう(たぶん違う)。iPhoneはほぼ一日中ONだったが(うまいこと言えてない)。
そんなわけで体調も習慣も最悪だが、重い体を起こすのに成功したのは11時過ぎだったか。iPhoneは起きるのには使えるのだが行動させるのには使えないのかなあ。昨晩は脳内が情報で溢れかえって頭は痛いし眠れないし動けないみたいな状態を味わっていた。
ゆるゆると例の実験の進捗を生む。epollの用法がそれなりに分かり、その上でちゃんと動くサーバを書くのは大変に面倒だということがよく分かった。ここまで5時間以上かけてる気がするが。なお後輩たちの平均進捗に対して1週間ビハインドの模様。
「レポートに思ったこと全部書いてるだろ、だから長いんだよ」と指摘された。少々耳が痛い。そんなに国語が得意でもないので、上手くまとめ上げたつもりでもむしろ難解になっていることが多々あって、それなら全部書いてしまえというかraw dataを残しておけというか、そんな気分である。この日記も、あまりにも話題の多い日でなければ纏めるのはほどほどにして書き流している。あと、高校時代に作文の字数稼ぎばかりやっていたという経緯もありそうだ。
話は変わって、4年生はそろそろ出願の時期であり、また2年生も進路選択の時期を迎えているが、最近「情報系学科の比較」なる企画が流行っているようだ(本当か?)。そこで再び思い至る:情報科学とは何なのか、我々はこの2年で何を学んだのか、何を学んでいないのか、それらは全体像の中でどう分類配置できるものなのか?
一昔前はきっと、コンピュータ科学が全てであり、情報系というのは計算機科学のこととしか言えなかったのだろう。ここで言う計算機科学とは、コンピュータをどう作りどう使えるように設計するかということの全てみたいなイメージである。これは相当に工学部的だ。正にコンピュータ屋と呼べるだろう。
だが、それで全てとは言えない時代になってきたのではないだろうか。生意気かもしれないが、コンピュータができた!動いた!以上のことをしでかす理論的土台が、そろそろできる頃合いなのではないか?電子計算機という枠に縛られない、情報科学の仕事というようなものが見えてこないか?
computerという言葉が機械ではなく人間を指していた頃、計算とは何か、情報とは何かということを人々は必死に考えていた。だが、チューリングが定義を固め、電子計算機が発明されて以来、人々はその性能と利便性を上げる仕事に熱を上げることとなる。その傍ら、アルゴリズムやら制御やらに関する知見が次々に生まれてきた。
まず一つある指摘は、計算機科学の副産物たる知見の数々は確かに計算機のために開発されたものだが、計算機以外のために使ってはならない訳でもなかろうということだ。ちょうど統計力学の思想が脳科学界に衝撃(?)をもたらしたように、計算機科学の思想が出張して仕事をする機会もあるのではないか。言い方を変えると、思想・理論の部分だけが独立して出張できるくらいに情報科学が発達してきた頃合いではないか?
もう一つある指摘は、そろそろ思想を更新したくないかということだ。この何十年もの間、情報とは文字列であり、計算とは巨大なメモ帳と有限状態機械による文字列処理であるという定義は更新されていない。これらは数値計算や定理証明というような単純でカッチリした作業をする人間の様子をイメージしてできたが、人類の次の夢は自然言語処理だの画像認識だのといったもっと複雑でふわふわした問題への挑戦である。そして、それを解くのはやはり複雑でふわふわした機械になり得るのではないか。今一度、人間という不可思議なcomputerを見つめ直し、新たな機械の夢を見てみたくはないか。
熱弁してみたが、これは計算機科学に愛想を尽かした者の戯言である。いずれにせよ、今が転換期なのではないかという俯瞰はそれなりに当たっているだろう。上手いことは言えないとしても、考え込む意味はあるのではないだろうか。
ちょっと収拾がつかなくなってきたが、眠くて駄目そうなのでおわりにしよう。おわりおわり。