496の落書き帳

496がなんか思ったことを書いたり書かなかったりする場所です。

にっき「前に進む方法」

進捗がカス!!!!!

昨日の進捗があまりにもカスすぎて日記すら書かなかった。かなしい。そして今日もカスなんだけどな。

昨日今日の進捗というと、講義を聞き流したことと色々な人に愚痴を垂れ流したことと例の実験のTAさんに文句を言ったことだけである。実労働をしろ。

例の実験の話

TAさんに文句を言ったというのは人聞きが悪いが、相手からするとそのようにしか見えなさそうなムーブをかましてしまった気がする。この問題は何人かの知り合いと話しながら考えたのだが、詰まるところ「誰にも義務・責任があると明言できないが、問題として存在するもの」の解決にはどうすればいいのかという社会問題に到達すると思う。

cf.光を失った学生を取り戻すのがどれほど難しいかは、現場にいる人間でないと理解できないと思う。でもそんなことに興味のある先生はほとんどいないのだ。まず先生側からは大抵観測できないし。この点で、理想的な教育を実現するには、ただその分野に詳しい人に一任すれば良いというものでないことが言えるのではないか。

実験が厳しいというのはある程度仕方なくて、先生が教育にモチベがなさそうというのはそれはそうで、ただ学生が妥当な授業を受けていない気がしますという問題が横たわっている。今日ではどこでも見られる光景であり、そのうち最も顕著にそれが感じられる所がここだという話でしかない。「大学はもっと自由な学問をする場としてあるべきで、先生は不当に多くの課題を出して学生の自由を奪っています!」などと高らかに言えば殴り勝てるのではとか、思わなくもないが、その思考をした時点で何か違う気がするのだ。

本音としては「これはあなたにとっては解決しなくても怒られない問題かもしれないけど、解決したいという気持ちになってくれませんか?」というお願いをしてみたい。が、そんなことを言っても駄目そうだという気持ちがある。もう、最初から先生のことを信頼していないというか。大学生になってからのどこかで、先生を信頼しないようになってしまったのだろうか?

cf.3月に死んでいたとき、某カウンセラーの動画で自由=責任=信頼という言葉があったのを思い出した。最初の等号は理解したが、2番目の方がよくわからなかった。今、僅かに理解したかもしれない。現状、自分に自由がなければ必然的に人を信頼することもできないということなのか?

心の奥底には、きっと。「それくらい自分でなんとかしろ」という刃への恐怖が焼き付いている。知能以外に誇るものがなくなりかけているこの空間で、その限界を認めたくないという心が行動を阻害している。違う、違うぞ。我々は知能は成長すると信じている。でも、今の時点では、先生からすれば匙を投げたくなるほど出来の悪い学生がいるというだけなのだ。

cf.ところで、偶然にも後輩と通話する機会があったが、今のところはまだ元気に生きているようだった。必修外科目や発展課題に取り組む気概も見え隠れしていて、後で死なないように気をつけろと苦言を呈してしまった。去年の失敗が繰り返されず、後輩が無事に成果を出すことができれば良いのだが、それを快く思わない自分がいる気がして、これは老害ムーブだ、人間としてまずいなと感じた。申し訳ない。ただし、通話に浮上していたのが殊更に優秀な人間の層であったという指摘がある。(観測できないものの存在を否定してはならない。)

今(昔もかもしれないが)、誰のせいでもない災害が色々なところで起きている。「社会は厳しいのです、諦めなさい」などといういつもの台詞もあるが、突き詰めれば「ごめん、単純にリソースがないわ」以上だ。これ以上の諦めはない。人間1人はそこまで賢くはなく、人類はまだそこまで豊かではないということだ。こんなことは誰も認めたくないに決まっている。

自由たれ

久々に気が滅入ってしまった。ちょっとガラリと話題を変えるが、今更ながら、幸せだと感じるのは自由だと感じるときだということに気付いた。人間はもっと自由に生きられるんじゃないかと思うと、幸せな気分が起きてくる。今日ようつべに沼っていたときに見かけたこの動画はその一例だと思う。

https://youtu.be/3rXDdUipxD0

要約すると「いつどこに住むか決める自由を獲得しようぜ」という話だ。気が向いたので大阪に住む。北海道に住んでみたいけど怖いので試しに1ヶ月住む。いろいろな場所を転々とすれば、毎日新世界を味わえるかもしれない。面白そうじゃないの。

さて、自由の眼で見ると、勉強というのももっと自由であってほしい。我々は先生に教えを乞うものではあるが、必ずしも先生の言う通りにするべきものでもない。授業と課題よりも教科書という媒体に自由と幸せを感じることもある。ゼミというものには詳しくないが、果たして。

もっと遠くを見ると、人の主観の上にしか価値と呼べるものが生まれない時代が見えかけている。かなり抽象的なことを言おうとしているし、自分でもよく分からないのだが、食べ物その他もろもろが簡単に完備されたとすると、本質的に芸術とか文化とかしかない世界に到達しないものか。それは、最も自由な人間の形だと思う。

家の例も勉強の例もそうなのだが、保守的で不変なものを求める日本人の習性が自由を阻害していることが多いのだろう。頭を使わずに済むってそれはそれで凄いことなのだが、やはりもっと自由になる方が幸せなんじゃないかなあ…。

前に進む

などと色々な思考を垂れ流しにしているが、この2日は本当に実進捗がないのだ。いい時と悪い時というのはどこに差があるのか分からないが、(もしかすると単に疲れているだけかもしれないが、)進みが悪くなると不自由を感じるし、課題の期限を守れなかったりするとさらに不自由を感じるし、必然的にやる気が低下しているのは間違いない。

じゃあ上手く進むにはある程度休息が必要なのだったとして、やっぱり僕は実進捗を生成するという機能においては相当のろまだと思う。人よりペースが遅いことを気にしてはいけないと思っているのだが、現に講義に間に合っていないので困る。

こう、だらだらと喋って進捗がなくなるのはいつものことなのだが、だらだらと本を読む分には進捗はある。そういう方向に動かしていかないと駄目そう。いたずらに人との会話を重んじすぎても良くないようで、よく考えないと。