496の落書き帳

496がなんか思ったことを書いたり書かなかったりする場所です。

にっき「社会という自然系」

GWが終わってゆく…今日は文系の友人が家に来た。

まず、経済の議論を振ったのだった。結論としては、経済って成長するようにはできているがそれ以上のことはあまり担保しないというものらしい。人類の物産の総和が増えた、やったー、ということしか分からなくて、じゃあその分配がどうなっていて個々人の生活水準がそれぞれどう上昇するかなどということは計算の範疇にない。これは単に「とりあえず総和を増やせるかだけ考えて系を書いてみようか」というある種の諦めなのだろう。そういうわけで、お金による物流が不幸を解決できるとは限らないということだ。必要条件だが十分条件ではないと。

そも、おそらく"平等"って自然な状態ではないのだ。自然科学に出現する系の数々を眺めればそんな気がする。人類は究極的に自然に学び、自然に倣い、自然を使って生きている。例えばコンピュータや電波通信も、解析できる電磁気現象をうまく利用したのだ。人類の社会活動も大域的にはある程度のルールから発生する自然な反応の結果としてあって、ルールを作った人間にはその末路が予測できていないだけだ。だから、あらゆる系の規則と末路、あるいは歴史を観察し、学び、活かせぬものかと検討する。これぞ自然計算の概念也。と、高説を垂れてみるとイカにも理学徒っぽいねえなどと言って戯れていた。

話は一転、あの人に会うと毎度毎度、まともな身嗜みとコミュ力を持った人間になれと説教されている。そして今困ってないもんと反論する。ここまでテンプレ。だったのだが、今年になってからもう少しマシになった?かなあ。ドライヤーと全身鏡を買えと言われてその場でポチった。1人でいると推進力がないからね。ありがたいことです。

少し真面目な話として、身嗜みを整えるってのはどういう意味があるのか。人を不快にさせないというのは分かるのだが、人曰く自己を高めるという感覚があるらしい。見栄は見栄だろう、見栄を張っても成績は上がらんじゃろと昔から冷めた目で見ていたのか、本当にその感覚がピンと来ない。さらに言うと見栄は一瞬で崩れるので維持するのはコスパが悪いという学習までしてしまった。人の顔や服を貶してはいけないというような説教が寧ろ効きすぎていて、人の顔も服も見ない人間になっているのではとさえ思える。もはや何が「かっこいい」なのかすら不明だ。転じて、お前は自分の容姿と自分自身が別存在だと思ってるのでは?という指摘を貰った。一理はある。

とにかく、今の自分にとって、まあこれくらいでいいんじゃないのと思えるレベルは一般人の思う最低限のレベルより低いらしい。ただ人に会わなくて、或いは指摘されなくて気づいていないのだと。これはコンプレックスだ。改善したいとは感じるが、改善すべく努力しようとしたり人に訊ねようとしたりする瞬間に「できない自分」を直視する羽目になり精神が破滅し、諦める。なんちゅう面倒な構造なんやー。

そこで、鏡の中の自分を「掃除」するような心構えがあると幾分マシになるんではないかという提言をした。上手く言語化できていないが、汚れている(?)のは自分の姿ではなくて、絵とか食卓とかのような、綺麗であってほしい物体の一つなのだと、そう考えるならまだ動く気になるのかーもしれない。これはかなり適当なことを言っているが。

その辺りで力尽きて、あとはぐだぐだーっと過ごした。あー、色々と先生にメール出さないとなあ。課題も終わってないしなあ。まあ、だいぶエネルギーを得たので、明日から活動を再開しよう。おわりー。