にっき「研究がしたい」
今朝は酷い有様だった。睡眠不足→二度寝無限ループ→食事放棄→エネルギー不足という見事な生活の悪循環に入り、講義もろくすっぽ聴いていなかった。15時くらいにようやっと動いたか動いてないか程度になって、でもここからストレスをかけるとまた駄目になると思って、結局何もしなかった。あー、やらなきゃ、やだなぁと言っているうちは絶対に進まないということが知られている。
夜、学科の一つ上の世代の人々とzoomで喋る会をやった。まあ、もちろん同期とも喋ったけども。もちろん研究室の話になり、研究の話になった。同期の人々は現状、研究って大変そう、というか、何すれば良いのか分からん、あるいはそもそも何がしたいのか分からんという立場にあって、でも2ヶ月後には院試の出願をしないといけないらしい。一つ上の人々はコロナ禍で紆余曲折を突破して大学院生を(あるいは社会人を)やっているから、1年分どころではなく先輩に見えてくる。色々なことを聞いた。まぁ、振り返ってみると何もかも自明の理に見えてくるが。
1つ。まず普通に勉強しろ。やりたいことが分からない、はっきりしないのは知見が十分でないからである。あるいは、そもそも研究者として学問の先端を進めるにはまだ明らかに勉強不足である。勉強するにはとにかく論文を読むのも良いが、(過去の論文の)知識がまとまっている本があるなら当然そちらの方が良い。先生の作った講義、あるいは調査論文も似たような位置の存在となる。なお、論文や本を読んで全然分からないのであれば一旦放り投げて他を当たる方が効率的だ。
2つ。先生を頼れ。先生は文字通り我々の遥か先を生きる指導者であり、先生からすれば我々はひよこの群れのようなものでしかない。上手く言語にならなかったとしても、自分の考えを表現して先生に意見を求めてみると良い知見や指導が得られる。先日先生と喋ったときには自分があまりにも無知なのを晒すのが苦しかったが、全く同じ症状を呈する中高生を仕事で見ていると何も言えないな。やはりタイマンは辛い気がするのだが、無知を晒すに当たって、隣に同期がいる方がマシか、いないほうがマシかというのは存外に微妙な問題かもしれない。
先生を頼れというのは、研究室選びにも当てはまる。気になる研究室があるが、どんな所か分からないのであれば、先生本人に聞いて仕舞えばよい。答えてくれない道理はない、はずだ。研究室体験で外れた所に最終的に行ったというケースはあり、学科の外側の大学院に飛んだ人もいる。やるなら今、その勇気を持って飛ぶしかない。
3つ。人を頼れ。世界にこれだけの研究者がいるのは何のためかを思い出せ。これは自分の極論だが、研究というのはある種みんなで力を合わせる勉強である。研究の方向性を報告すると、先生がその方向をやっている知り合いの研究者を紹介してくれることがあるらしい。ここに来てまた友達とコミュニティの大切さを説かれるのか。20歳までの自分を何度呪えば気が済むのだろう。
うん、少しやる気が出てきた。まだ勉強したいという心が戻ってきた。課題という姿を取ったとき、勉強はあまり上手くいかない。単位が取れる気も卒業できる気もしないくらいの心地だが、毎日一歩ずつ歩く以上の進歩はない。何事にも期限がついているのがいささか厄介だが。
「まあ焦らずやって下さい。最悪留年すればいいんです。沢山勉強できますよ」