496の落書き帳

496がなんか思ったことを書いたり書かなかったりする場所です。

にっき「例の実験と、経済の話」

寝坊から始まる週明け。睡眠が足りてないのか、はたまた眠りすぎかは不明だが、滑り出しとしては微妙だった。

今日は月曜日。月曜の授業はなんやかんやで潰れていたが、今日は正常だ。正しき月曜が戻ってきた。

そう、第五学期のラスボス…あの実験のお時間である。説明があるようで説明のないスライド、何も頭に入らぬまま実験に投げ出される不安、オンライン特有の声が届かない雰囲気、じわり甦る悪夢、それを繰り返させまいという焦り。

今年もTLで人々が不満を漏らすのが順調に観察され、複雑な気持ちだ。一部の人々はDiscordで何も分からない何も分からないと騒ぎ合い話し合いながら実験をしていて、きっとそれが本来の姿なのだが、そうでなかった人々が本当に心配である。あの実験は、間違いなく当学科の授業のオンライン化において最大の被害を出したと思う。

思えば、あれは当学科で最も実験らしい実験だ。むしろ回路いじりよりも実験らしい。場合によっては根本的な原理が未修であったりするのにも関わらずその説明は希薄であり、詳細な手順の理解は複雑で多岐に渡る知識を必要とし、その上でそもそも実験を遂行するのに必要な労力がかなり大きく、少しのミスで結果に不可思議な事態が生じ、考察には何を書けばいいのかてんで分からない。「分かっていないのに作れと?」「大丈夫、作れば分かります」という合言葉にはやはり理不尽を感じるが、コンピュータの実験というのはもしかすると自然科学の実験より本質的にタチが悪いのかもしれない。原理と実験が不可分であり、そのまま合一体になって襲ってくるという点で。

どうしてこんなに厳しく感じるのだろう、という問いには様々な視点から指摘ができると思う。授業のやり方、課題の出し方には色々と論じる点があると考えられるが、次の指摘には多くの人が同意するだろう:

授業をする気はない。ただ勝手に学生が育つ。

そして、「易しくしてくれないかと言ってもたぶん応じてくれない」といった感覚もある。なんとなくその気持ちは分かる。何もかも教わっていては、勉強する気が起きないということだろう。「今の若者は甘えている」論争がここにもある、ような気がする。

大抵の場合、厳しくするほど人は育つが、厳しくしすぎるとどこかで破綻する(オンライン化で学生の自然な結束が崩れ、厳しさが跳ね上がったことを指摘しておく)。そして、今の日本はどこを見ても厳しさの塊である。時間にも仕事にも利益にも責任にも平等にも厳しい。余裕がない。どうして、こうなった。日本全体が厳しいからだ。それはどうしてだ。経済力がないかららしい。なんだそれは。

僕は経済に疎く、お金の力なるものを信じていないのだが、ことはバブル崩壊に遡る。各所に書かれた数字が上下するだけでどうして豊かだったものが貧しくなるのか、この20年まるで理解していなかったが、ある一つの原理を思い出せば事は単純であった:

お金とは、物々交換における仮想的な商品である。

バブル崩壊の主な原因は車を売りまくる日本にアメリカが怒って円高にしたことと日本の銀行が調子に乗ってお金を貸しすぎたことらしい。お金はモノの代わりに使われる符号であるという視点に立てば、日本は偶然にも適正なトレード比率よりモノを貰いすぎていて、調子に乗ってモノ遣いが荒くなったと言えよう。それでアメリカが苦しくなったので日本はアメリカに怒られてモノを没収され、今度は日本が苦しくなってしまった。だから、たぶん誰が悪かったという話でもないのかもしれないという気はする。

お金というシステムは物流の効率を良くし、その操作を容易にするのだろうが、一方で人々の生活を簡単に左右するような、色々と危険なテクノロジーみたいなものでもあったのだろう。そのことについて考えているのが経済学の人たちだったのか。今ちょっと理解しました。

ただ、とにかく余裕というのはすごく大事な財産だと思う。余裕がなければ自分の好きなことを勝手にやってみようとは思えず、自由の幸せを感じる機会は失われ、ついでに自主性も削がれる。余裕があった頃には学校も企業も趣味で色々なことをやっていたようだし、その結果たまに良いものを生産できればラッキーという雰囲気だったのだろう。ある意味で教育と学問は文化活動であったとさえ言える。今は何もかも生産性第一で動いており、企業には有益な商品を生産することが、学校には有益な人材を生産することが、研究者には有益な研究をすることが求められている。直ちに有益性が示されない文化は廃れる。フィンランドに言わせれば「教育は福祉」らしいが、この状況下の日本には福祉的教育は厳しそうだーー文字通り。

話を戻しに戻して、必修科目だけで十分に余裕を奪われた去年の日々はやっぱり不幸だったと思うし、あの実験は主犯格と言っても過言ではない。その状況を客観的に見た今、大学という最も自由であるべき場が学生から余裕を奪いすぎるのはかなり危険なことだと感じる。もう少し、もう少しだけ課題を減らすか、せめて分割するか、あるいは分かりやすい具体例をいくつか載せた授業をしてくれるかすればたぶん大分ましになるのだ。

何か,もうちょっと幸せな世界を作れないものか.まだ,そんな夢を見ながら生きていたい.